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なじょしてる通信 №212

№212 2011年10月 8日発行 
日本共産党 南相馬市議会議員 議会報告
 小高区耳谷小泉23 渡部一
℡(当面)26-5002  携帯 090 2993 1471


敬老会 中止
 例年、敬老会は9月に開催していました。
 今年は、会場の状況や原発事故による避難の状況から、11月開催で検討をしていました。
 各区で開催についての検討をしましたが「開催できる環境にない。」との意見が多数を占め、今年は見送ることになったそうです。
 やむを得ないと思う反面、こんなときだからこそ交流をかねての開催があってもと思いますが?

警戒区域解除後も 小高病院再開はなし  
 市は、「地域医療再生計画」を検討しており、9月中旬に福島県に対して計画事業内容が提出されていることが分かりました。
 その中では、「南相馬市立病院(230床)の敷地内に南相馬市立小高病院(99床)を移設し、放射線被曝研究機能、放射線治療機能、脳卒中センター機能などをもつ施設を整備する。」とされています。
 放射線や脳卒中対応策は望むところですが、小高病院の移設を条件にすることは、大問題です。移設してしまえば、警戒区域が解除されても小高病院にベットを戻すことはできず、病院再開はあり得ません。
 小高病院廃止後の対応策は、何も検討されていないようです。
 この内容は、私や今村議員等と民間病院関係者との懇談の際に分かりました。小高の市民はもとより、議会・議員にも、小高地域協議会にも何も知らされないまま進められており、計画はすでに県に提出されています。

議会に説明を要求 
 情報を入手した小高出身議員4名(竹野議員は別途予定が入っていたため欠席)は、10月3日に緊急に協議し、7日に開かれる議会全員協議会で説明するように、議長に手配を求めました。
<以上、10月5日記。その後の状況は、次号以降でお伝えします。>

一の一般質問①
 私の一般質問は、9月13日に行いました。内容の要旨は、以下の通りです。

戻れることを確信できる警戒区域の復旧・復興計画を
【質問】原発事故は、なお収束の見通しが立たず、被害は我が南相馬市はもとより、全国に拡大する深刻な事態が続いている。
 地震、津波での被災、原発の被害を受けたすべての方々に、安心と希望の持てる生活が1日も早く訪れるように、私はみなさんと力をあわせて被災者・被害者支援、復旧・復興の取り組みに、引き続き全力を尽くす決意を、表明いたします。
 原発事故の危険性について、あらためて言及する。
 原発事故には、他の事故には見られない「異質の危険」がある。ひとたび重大事故が起こり、放射性物質が外部に放出されると、もはやそれを完全に抑える手段は存在しない。
 被害は「空間的」に、どこまでも広がる危険があり、現に放射能による汚染は、日本列島の各地に深刻な打撃を与えている。
 さらに被害は、「時間的」に、将来にわたって続く危険がある。特に子供たちへの健康被害が強く懸念される。未来を担う世代の命と健康を守るために、あらゆる手立てを取ることが、強く求められる。
 その上被害は、「社会的」に、地域社会の存続を丸ごと危機にさらしている。我が母校、福浦小学校校歌に歌われている「海は濃みどり 小山はしげる 畑も田んぼも豊かな実り ここは浦里われらの故郷」は、原発事故で一瞬にして奪われた。突然に避難を強いられ、避難を強いられ続けている。すべての南相馬市民は、無念と怒りに満ちている。
警戒区域では 
 その中でも、警戒区域に住んでいた市民は、中心にある。
 しかし、その警戒区域の対策は、ほとんど見えないと言っていい。当面、市民が住んでいるところ、近々全面的に住めるであろう緊急的避難準備区域に、多くの力を注ぐことは、当然だが、それは警戒区域をほったらかしにしていいということではない。警戒区域に住んでいたはずの市民にとっては、そのように受け止められている。
 状況がわからない。情報が少ない。原発がいつ収束して、いつ戻れるか見えない。ライフラインはどうなっているのか。津波のときよりも水が多くなっているという。
 見通しと展望が見出せないまま、長引く避難生活に耐えていくことにも、限界がある。
 日に日に「もう戻れない。」とあきらめる人が増えてきています。
市長の姿勢を示せ
 第1の質問です。全国に散らばり、長期避難を強いられている警戒区域とさせられた市民に、希望を与えなければなりません。進むべき道筋を示す必要がある。何としても戻って、3月11日前の生活に戻していくとの、市長としての、南相馬の姿勢を示していく必要がある。
【答弁】 調査中、精査中だ。

警戒区域として遅れを容認?
【質問】警戒区域は、市民の全てが避難させられ、復旧すら緒についていない。
 しかし、警戒区域が解除されたその時には、復旧・復興のトップギアに入っていることが求められる。その姿を、その路線を市民に知らしめておくことが必要だ。
 「警戒区域だから、スタートが遅れるのはやむを得ない。」として、遅れを容認していると受け止められる。
【答弁】 国土交通大臣と協議しながら、対応策を順次進めている。

【再質問】警戒区域市民に見えていない。
【答弁】今後、お知らせをしていく。

《以下、次号に続く》

なじょどがしたい 3月14日
 3月14日午前6時、小高区役所ロビー床から起床。下着を替えたく自宅に向かう。途中の道にも、自宅も無人。
 宮田川の海口閘門が閉じられままと見られる。津波直後よりも水位が上がってきている。
午前7時から小高区役所で「区役所撤収」の打ち合わせ。議員は、私一人だけ。
7時50分、小高区役所撤収。
8時、陸上競技場南側信号機交差点で、警察による検問。
私はこれ以後毎日、市役所に詰めるようになりました。チイ子さんから初めて℡あり。会津若松の実家に避難したとのこと。

市役所の屋上に自衛隊が大きいアンテナを立て始めました。屋上に出る小部屋には、古い木製の机があり、議員などの喫煙用の灰皿などが備えてあります。ところが机には、自衛隊の無線機が据えられ、2人の隊員が無線中継の任に当っており、占領されてしまいました。
(ここは、3月15日分:15日の朝、喫煙に行くと、無線機だけ置いてあります。無線機は役に立たなくなって、放置してあるのか? 疑問に思って、指紋が付かないようにライターでスイッチを押してみました。無線機はランプが付き、メーターが動き始めました。無線機は生きています。あわててスイッチを切りました。)
 後に分かったことですが、14日夕、自衛隊員は階段を駆け下りながら「逃げろ、逃げろ!」と大きな声を出しながら、市役所から飛び出していったそうです。自衛隊の車両が、赤色灯を点け、サイレンを鳴らして何台も何台も西に向かっていったそうです。自衛隊員のパニックをまともに見た職員のごく一部は、不幸にも2度と市役所には戻ってきませんでした。

 14日の夜は、平田議長宅に泊めてもらうことになりました。
 議長宅では家族は避難していました。議長は取り急ぎ夕食の準備を始めましたが、その間「一杯やっていろ。」の指示あり。私は4日ぶりのお酒を一口飲み「んーーー」と唸った直後、携帯電話が鳴った。
 お願いしてあった「町のT女史を確保できた。」と市役所からの連絡。T女史は籠城を決め込んでいたものの、私の伝言を市役所職員から聞き、脱出を決意してくれた。
 市職員に議長宅に送ってもらったものの・・・・。私は、T女史が役所車から降りる前に、「議長、私は少し飲んでしまったので、私の車を運転してくれないか。」と、お願いした。「オー」の即答。
 会津若松市のチイ子さんの実家に着いたのは、夜10時過ぎ。
 会津の実家は大きい家ではあるものの、人々で所狭し。我が家族も含め、身を寄せた避難者は36人。実家宅を含めると、総勢41人になっていた。
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プロフィール

watanabekaniti

Author:watanabekaniti
▼1953年(昭和28年)
耳谷生まれ 57歳。
相馬農業高校農業科、福島農業短期大学農業科卒業
▼資格 農業改良普及員。 
▼福浦農協、小高町農協、そうま農協で営農指導員として勤務し、4年前に退職。
▼1972年豊かな農村を創りたいと願い、日本共産党に入党。
小高町連合青年団事務局長 
県農協労連副委員長を歴任。 
▼町・市議会議員30年。

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